
古代の大豪族・上野毛朝臣と同族
今回もあまり馴染みのない氏族の官人を取りあげよう。『続日本後紀』巻七の承和五年(八三八)三月乙丑条(八日)には、池田春野(いけだはるの)という官人の卒伝が載せられている。
池田朝臣という氏族が史料に登場することは滅多にないが、『新撰姓氏録』では、
と見える。天武十三年(六八四)の八色の姓で朝臣姓を賜わっている。「池田」の名は、上野国那波郡池田郷(現群馬県伊勢崎市の南西部)にちなむものである。
同族とされた上毛野朝臣は、上野国の古称である上毛野国の名を負った古代の大豪族である。『日本書紀』によれば、崇神天皇の皇子で東国を治めることになった豊城命(豊城入彦命)を始祖とする。東国経営と蝦夷征討に従事していたという伝承が『日本書紀』に伝わる。神功皇后の「三韓征伐」伝説にも上毛野氏の祖の一連の新羅征討の伝承が見えることから、戦争を含む朝鮮外交にも関係していたのであろう。天智二年(六六三)にも、上毛野君稚子が前将軍として百済救援軍に参加している。こちらも天武十三年に、地方豪族としては珍しく、朝臣姓を賜わっている。
上毛野氏と同祖と称する氏族は、大野・車持・佐味・池田・住吉・池原・田辺・桑原・止美・垂水などのほか、渡来系の氏族とも数多く結び付いている(『新撰姓氏録』)。奈良時代後半以降は、天平勝宝二年(七五〇)に上毛野君に改姓し(『続日本紀』)、弘仁元年(八一〇)に朝臣の賜姓を得た渡来系の田辺史系の上毛野氏(『新撰姓氏録』)が、中心的地位を占めるようになる。

春野は、父母をはじめとする父祖の名もわからず、子孫の名も伝わっていない。享年から計算すると、天平宝字元年(七五七)の生まれとなるが、この時期の池田氏の官人としては、天平宝字元年に従五位下に叙され、左衛士佐に任じられた足継(たりつぐ/後に下総介・豊後守・左少弁)、天平宝字八年(七六四)に従五位下に叙された真枚(まひら/後に軍監・上野介・少納言・長門守・鎮守副将軍)が『続日本紀』に見える。このあたりが春野の父にあたるのであろう。
さて、春野はその出自から考えると、順調に昇進していったと言えるであろう。三十五歳でやっと天皇に近侍する内舎人に補されたというと、出世が遅いと感じる向きもあろうが、元々地方豪族であったのであるから、これでも大変な出世と考えるべきである。四十五歳で貴族としての位階である従五位下に叙されたのも、それほど遅いという感じはしない。
ただ、当時の平均寿命を考えると、これからあと何年、官人として出仕できるかは、本人次第であった。四十代で死亡する人も、それほど珍しいことではなかったのである。その点、春野は、内蔵助・丹波守・桓武天皇大葬の御装束司・中務少輔・弾正少弼・大蔵大輔・遠江守・越中守・宮内大輔と、数々の官を歴任し、桓武・平城・嵯峨・淳和・仁明と五代の天皇に仕えた。その間、位階も従四位下に至っていた。
この間、数々の政変や陰謀が繰り広げられたのであるが、微官の春野にとっては、ほとんど関係はなかったことであろう。歴史叙述というと、どうしても派手な政変劇に目が行きがちであるが、ほとんどの官人はそれらに関係することはなく、中間派としてそれらの動きを傍観し、与えられた職務を淡々とこなし続けていたのである。
最後に補された職が掃部寮の長官である掃部頭というのも、何とも言えずこの人らしい。掃部寮というのは、宮内省所属の令外官で、宮中の儀式・公会の座を鋪設し、それに必要な薦・席・牀・簀・苫・畳などを扱い、また洒掃にあたった。元々、大宝・養老令制では大蔵省掃部司と宮内省内掃部司があって、その所掌を互いに譲り合って支障が多かったため、弘仁十一年(八二〇)に併合して宮内省掃部寮となったものである。
このように、権力中枢とは遠い所で官人生活を続けた春野であったが、実はその長身と白髪以外にも、目立った能力があった。故事、特に古体の装束に詳しく、天長十年(八三三)の大嘗会では、袴の裾の長さについて蘊蓄を垂れ、皆を驚愕させたのである。彼の人生で、もっとも脚光を浴びた日だったことであろう。春野の目には、この日の鴨川は、どのように映っていたことであろうか。この年、春野は七十七歳であった。「国の元老」と讃えられた春野であったが、これがその後の人生に有利にはたらいたわけでもなかった。
その後も大して出世することもなく、当時としては驚くべき八十二歳の長寿を得て、最後は散位として死去した。子孫の名が伝わっていないのは、従五位下に上った者がいなかったせいであろう。
それにしても、政治史的にはまったく目立たず(見た目は目立っていたようだが)、大して重んじられたわけでもない春野が、その知識のお陰で一度だけ、脚光を浴び、皆に誉め称えられるとは、何とも痛快な人生ではなかろうか。何ともあやかりたい話だが、当方は残念ながらこれといった能もなく、ただ老い果てていくだけなのである。
(1)「薨卒伝」で読み解く、平安貴族の生々しい人物像
(2)平凡な名門貴族が右大臣に上り詰めた裏事情
(3)朝廷の公式歴史書にまで書かれた宮中の噂の真相
(4)朝廷からも重宝された「帰国子女」の正体
(5)優秀な遣唐僧が東大寺の僧に怒られた意外な理由
(6)天皇の外戚で大出世、人柄で愛された渡来系官人
(7)原因は宴席の失態?政変に翻弄された藤原氏嫡流のエリート
(8)天皇の後継争いに巻き込まれた、藤原仲成の最期
(9)無能でも愛すべき藤原仲成の異母弟・縵麻呂の正体
(10)出世より仙人に憧れた?風変わりな貴族・藤原友人
(11)飛鳥時代の名族・大伴氏の末裔、弥嗣の困った性癖
(12)最後まで名声を求めなかった名門・紀氏の珍しい官人
(13)早くに出世した紀氏の官人が地方官止まりだった理由
(14)没落する名族の中で僅かな出世を遂げた安倍氏の官人
(15)清廉さゆえ民を苦しめた?古代の名族・佐伯氏の官人
(16)出世より趣味を選んだ藤原京家の始祖・麻呂の子孫
(17)天皇に寵愛されながらも政争に翻弄された酒人内親王
(18)官歴を消された藤原北家の官人・真夏が遺したもの
(19)藤原式家の世嗣に見る官僚人生をまっとうする尊さ
(20)後世の伝説へ繋がる六国史に書かれた空海の最期
(21)天皇から民衆にまで愛された皇親氏族・甘南備高直〈前回〉
(22)長寿の官人・池田春野が一度だけ脚光を浴びた理由 ←最新回
(23)最後の遣唐使の大使を務めた藤原常嗣の隠れた功績〈次回〉