『戦う大名行列』web版 目次
はじめに
【序章】軍隊行進だった大名行列
【第1章】領主別編成と兵科別編成
【第2章】中世初期の兵科別編成
【第3章】村上義清から生まれた戦列
【第4章】京都を訪ねた兵杖行列── 越後の隊列
【第5章】謙信の軍列── 車懸りの真相
【第6章】武田軍の隊形── 模範的軍隊の創出
【第7章】北条軍の隊形── 岩付衆諸奉行のチャレンジ
【第8章】上杉三郎景⻁の軍師
【第9章】織田信⻑と明智光秀の「戦争」
【第10章】武田家遺臣と蒲生氏郷の陣立書
【第11章】豊臣時代の陣立── 伊達政宗と上杉景勝の陣立 ☜最新回
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一六世紀末に異国から注視された日本の陣立
  ・導入される日本式の陣法
  ・異国から観測された日本の陣法
  ・再生した上杉軍
  ・大坂冬の陣と車懸りの陣
  ・秀忠御先手一番・伊達政宗
  ・秀忠御先手三番・佐竹義宣
  ・義宣は今福の地をよく観察した。
  ・佐竹家中の記憶から消された歴史
  ・上杉景勝の陣立
  ・鴫野合戦の前半戦
  ・鴫野合戦インターバル
  ・鴫野合戦の後半戦
  ・佐竹・上杉両軍、今福・鴫野を制圧す
  ・景勝の厳粛な軍隊
  ・上杉軍の動き
  ・景勝の車懸り

一六世紀末に異国から注視された日本の陣立

 その後、兵科別編成の軍隊による諸兵科連合の戦術は日本各地に浸透化することになる。これを明らかにするのが、豊臣軍が朝鮮半島に出兵した「朝鮮出兵(「文禄・慶⻑の役」とも言う。1592~93、1597~98)」の記録である。

 豊臣軍の猛攻を受けた朝鮮の李氏王朝は、天正20年(1592)5月2日、開戦から一月かからずして首都京城を占領された。城戦と水戦はともかく、正面からの野戦においては豊臣軍は必勝不敗であった。

 朝鮮軍は明国の援軍に支えられながら捲土重来を期するため、宣祖27年(1593)8月に砲兵を中心とする訓練都監を設置。翌年、地方予備軍の束伍軍を創設する。そこには教官を派遣して武技を仕込み、弓・鑓・銃筒・火箭のみならず飛撃震天雷(爆弾)や火車を開発した。日本の火縄銃ほど性能は高くなかったが、それでも数多くの鳥銃が急造された。

 また、同年6月には100年ほど昔に書かれたという朝鮮の兵書『陣書』(後の『兵将図説』)を復刊し、古来の軍制と作戦も研究された。しかしそこにあるのは、実用に耐えない古風な陣形ばかりで、朝鮮の将軍たちは現場から戦法を改めるほかになかった。

 朝鮮軍は日本の特殊な用兵術に悩まされ続けた。窮地に立たされた彼らは、兵書よりも眼前の現実から学ぶことにした。そこで得たのは、日本式の用兵を模倣するのが簡にして便であるといった結論だった。早速、日本式の武力編成と用兵が導入するが、それは村上義清が上田原で用いたものと同型の用兵であった。かつて義清の編成と用兵は謙信が継受し、それに対抗する武田と北条がこれを模倣した。これと何ら変わりない伝搬の構図が、海外でも見られたのである。これと何ら変わりない伝搬の構図が海外でも見られたのである

導入される日本式の陣法

 宣祖29年(1596)2月17日、李氏朝鮮の軍隊は「殺手兒童」(決戦時に投入する少年兵)を増員し、「倭人の陣法を学習」することにした(『宣祖実録』巻72)。そのときの倭人すなわち日本の武士が使っていた陣法が記録されている。

 まず宇田川武久氏の『真説鉄砲伝来』(宇田川2006)における日本語訳を紹介する。...